大喜利天文台
お題
図書館から聞こえてきた爆音の正体
板野さんの作品
芸歴40年の節目を迎えた今年、松本人志は悩んでいた。これまでの芸能生活でストイックに笑いと向き合い、漫才やコントにおいて数々の発明をしてきた。笑いの最前線にいたと言っていいだろう。
だが今はどうだろうか。
小峠がいればチンコみたいだとイジり、陣内がいれば不倫でイジる。これでも笑いは取れるが、そんなものは他の誰かがやればいい。
自分は今の地位に甘えているんじゃないか。
若手は俺の名前で笑っているんじゃないか。
油断するとマイナス思考だけが脳を埋め尽くそうとする。かつて笑いの歴史を変えた男にとって、この現状は死んでいるのと何も違いはなかった。
少し頭を冷やそう。こんなときは散歩でもするのがいい。パツパツと胸筋が浮き出たグレーのTシャツに薄い上着を1枚羽織り、住宅街の朝靄の中へ吸い込まれるように家を出た。目的もなく、そのままふらふらと歩き続ける。仕事に追われる生活をしていた彼にとってこの時間は新鮮で心地のいいものだった。

どれほど歩いただろうか。太陽が真上に昇った頃、町の外れにある図書館が見えてきた。おそらく15kmほど歩いたのだろう。
一息つこうと上着を脱ぐ。汗で黒くなったTシャツは大胸筋を誇張するかのようにぴったりと張り付いていた。
この日差しの中、帰る気力はない。陽が落ちるまで本でも読みながら涼ませてもらおう。そんなことを考えながら彼は図書館に入った。

冷房の効いた館内は天国だ。奥の椅子に腰を掛けると、ボーっと辺りを見回す。
平日の図書館は人も少なく、静まり返っていた。
あくせく働くヤツらのいない別世界。ここなら今の自分を受け入れてくれる気がした。
思えばこの40年、休むことなく走り続けてきた。もう自分の役目は果たしたはずだ。これ以上、老体に鞭打つ必要がどこにあるというのか。代わりはいくらでもいるだろう。
また負の思考が流れ込む。
あかん、ネガティブになってもうたな。このままでは潰れてしまいそうだ。
気を紛らわそうと席を立ち、何か楽しそうな本はないかと近くの棚を探す。ひときわ明るい表紙のものを取り出すと、それはお菓子作りの本だった。適当に開いたページにはフランスのチョコケーキが載っている。
さらにページをめくる。こちらはドライフルーツたっぷりのパウンドケーキだ。鮮やかな色彩が目を楽しませてくれる。
美味しそうやな。こんな簡単にできるんやな。
「芸人やめて、小さなカフェやるのもええな。」
無意識にそう呟いていた。声に出すつもりはなかった。ずっと抱え込んでいたものがとうとう限界を迎えたのだ。決壊したダムのように溢れる感情は、もうどうにもならないように思われた。
その時だった。

「何言っとんねん!!!」

バチーン!!という爆音と共に、後頭部に衝撃が走る。
床に倒れ込んだ彼が顔を上げると、そこにはゴリラ顔の男が立っていた。
「は、浜田...」
間違えようがなかった。うんざりするほど見てきた汚い顔だ。
「まっちゃん、それ本気で言ってるんとちゃうやろな」
苛立った口調の裏腹、浜田のブサイクな目元には一筋の涙が光っていた。
本気で心配してくれているのだ。
思えばこいつはいつもそうだった。笑うと尻を叩かれる番組で、大袈裟に痛い痛いと言ったときも湿布をくれたっけ。
こんなに恵まれた相方を持ちながら辞めようなどと考えていたことが急に恥ずかしくなった。全身の力が、一気に抜ける。
「冗談や、冗談」
いつもの調子で笑ってみせた。
「まあ僕が本気になったらケーキ界も獲ってまうんやけどね」
「それでこそや、ナハハハハ」
普段は不快なこの笑い声も、今は川のせせらぎのように感じた。
ふうっと深呼吸して立ち上がると、身体に力がみなぎってくる。ギラギラしていたあの頃に戻りたいと思った。戻れると思った。
もう一度、2人でやり直そう。
決意を固めた男の背中には、見せかけの筋肉だけではない迫力があった。
2人は肩を並べて、ゆっくりと歩き出す。
「にしても、浜田も丸くなってもうたな」
「ナハハハ!そんなことあらへんて!」
浜田は豪快に笑うと、棚から分厚い昆虫図鑑を手に取る。
さっきよりも大きく、鈍い音が館内に響いた。
このエピソードはどの番組で話そうか。
薄れゆく意識の中、松本はそれだけを考えていた。
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3点魂の裏切りの夜
2点卓球部
2点とりふぐ
2点恐竜土偶
4点かくれどり
3点新築
2点半丙太
2点ねこライト
2点すかいどん
4点林原よしき
3点しろねこ
2点エコノミー
3点寝癖の宇宙
2点pokopoko
2点しんみり
2点にゅわ
2点RANRANRAN